『街場の大学論』続き

月曜には読了して、えもいわれぬ読後感に浸っていたのですが、blog書くほどの時間の余裕がなかったのでここまで後回しにしてしまいました。
私は本はきれいに取っておきたい主義なので、書き込みはおろかドッグイヤーさえつけないようにしていたのですが、本書はあまりに印象的な部分が多すぎて、ドッグイヤーも傍線も書き込みも、一気に解禁してしまいました。
特に、最後の杉野国立大学法人支援課長との対談は大学関係者であれば一読の価値あり。

大学を赤字だからといって一度つぶしてしまったら、それと同じ社会的機能を代替するものを作るのにどれくらいコストがかかるか。(中略)大学は研究機関であり、教育機関であり、図書館であり、情報施設であり、スポーツ施設であり、緑地でもある。

変革の目的は、制度を変えることじゃなくて、質を上げていくことなんです。(中略)一番大切なのは、そこで働いている教職員の士気を上げることでしょう。(中略)
ましてや教育機関の使命は、高度の知的達成を果たすことに尽きるわけですから。考えることは一つしかないんですよ。それは、「どうやったら人間は高い知的パフォーマンスを達成するか」ということです。

学者に巨大組織の経営なんかできるはずがない。そんな訓練受けてないんですから。だから、「学者でもできる小商い」でいくしかないでしょう

最後のところは、だからこそadministrative staffの果たせる役割があるのではという気もしますが、それでも一単位は「小商い」であってこそacademicであり、あくまでそのまとめ役としての「巨大組織の経営」なのかなぁ、という気もします。

大学という存在は、あくまで「象牙の塔」であることに意義があるのではないでしょうか。あえて時代の流儀に乗らず、茨の道を進む。そんなことができるのは象牙の塔くらいだし、ギルドとしての大学はそういう役割を担っていたのではないでしょうか。それこそが責務とすれば、そこには実はアカウンタビリティが介在する余地は逆にない。一方、現状の日本の大学は、「象牙の塔」になるために、「象牙の塔から抜け出すことを迫られる」というパラドックスにあるようにも見えます。「象牙の塔になる」という目標がないままにひたすら抜け出すことを迫られているだけの部分も少なからずありそうですが…
ここはやはり、東大からダウンサイジングを始めないといけないのかもしれません。とある危惧のハードルさえ乗り越えてしまえば、一気に進むようには思うのですが、そのハードルは高いし、危惧だけでなく実際にインプリされてしまうとそれはそれでかなりの影響を伴ってしまうはず…