カラオケ大会と市民的エリート

先週末は謎のカラオケ大会(「グッときた歌」オフのはずが、半分ネタ歌大会にもなってたような。くわしくはKfpauseさんのブログをご覧あれ→第1回 #グッときた歌 カラオケオフ大盛況でした! - カフェパウゼをあなたと)のあとノンアルコール二次会で労働契約法の話やらオペラの話やら。
自分も知らないいろんな話を聞くのはとてもおもしろいのですけど、なかでも芸術の話って、自分が全然知らないせいもあっておもしろいと思うのです。そんな話をしながらなんとなく考えていたことを、整理しきれていませんがひさびさにエントリで書いてみます。

「市民的エリート」

東京大学はその憲章において「公正な社会の実現、科学・技術の進歩と文化の創造に貢献する、世界的視野をもった市民的エリート」の育成を謳っているのですが*1、「公正な社会の実現」や「科学・技術の進歩」は「見えやすい」こともあって、比較的意識されやすいと思います。そして、東大は最近ではとみに「世界的視野をもった」の部分に注力しはじめています。翻って、「文化の創造」の部分がどうかと考えると、ときに「必要ない」と切り捨てられてしまいがちな部分でもあり、もっと力点を置いてもいいと思うのです。
もちろん、「文化の創造」というのは、いわゆる「文化」に限定されるものではなく、人文科学や社会科学、さらには自然科学を通して、知識の拡がりによって人間社会を豊かにするという意味合いも含んでいるとは思うのですが、文言の並びから考えても人文科学分野を主たる射程としていると解釈して差し支えないと思います。議論を簡単にするために「芸術」と言い換えて考えてみましょう。

芸術の大切さ

なぜ芸術が大切かというと、前述のとおり「拡がり」というものが大切だと思うからです。処理能力の高さも、専門知識も、それだけではともすれば独りよがりになってしまいがち。「専門バカ」という言葉もありますね。それ自体でも価値のある処理能力や専門知識ではありますが、それ以外の何かに裏打ちされてこそ真価を発揮するのではないでしょうか。
その何かとは、一義的には自らの専門分野以外の知識、「処理能力」とは別ベクトルの何か、だと思います。たとえば給与労働者がNatureやScienceを読むとか、研究者がThe Economistを読むとかでもこの要件は形式的には満たされるはずですが、ここは「芸術」にこだわってみたいと思います。
芸術の定義というのはすごく深遠な気がするのですが、たとえば「人の営みをいろいろな手法で表現したもの」と言ってみたら、少なくとも一つの側面から見た定義にはなるのではないでしょうか*2
そうしたときに、エリート*3こそ、芸術に対する理解が求められるのではないでしょうか。エリートに限定する必要はないのですが、結局のところ、仕事でもプライベートでも、マクロに見てもミクロに見ても、究極的にはすべて「人」との関係だと思うのです。何をするにしてもカウンターパートは人間ですし、たとえば官僚が様々な施策を考えるにしても、その行き着く先はそれぞれの受益者、ステークホルダー、国民という「人」だと思うのです。
ひと一人を完全に理解することだってできないのに(自分一人だってそうですね)、すべての人を理解できようはずもありませんが、芸術が、作者が人間性を抽出すべく様々表現した結果だとするならば、それを理解することは必要だし、重要であり、ノブレス・オブリージュの観点から、処理能力の高い人たちに求めたいと思うのです。

きっかけとしての芸術教育

ここで憲章に立ち戻り、「市民的エリートの育成」ですから、学生がどうかという点を考えてみましょう。もちろん文学部とかを中心に芸術に強い人もいっぱいいるのですが、基本的に東大の入試は情報処理能力に長けた人を採る入試だと思うので、勉強ができる(より正確に言えば、テストの点が取れる)人が多く入ってくるのは間違いありません*4。こうした能力は比較的(憲章に言う)「社会」「科学・技術」につながりやすいと言ってよいと思います。逆に言うと、入試段階では芸術的側面は必ずしも重視されていません。
入試段階で見ていない以上、学部教育の段階で他分野以上にencourageするべきと考えられるわけですが、美学芸術学や文化資源学とかを専攻するのであれば格別、そうでない学生には教養教育として芸術に触れる機会を積極的に作るべきでありましょう。もちろん総合科目のA系列(思想・芸術)に芸術関係の授業はいくつか配されていたはずですし*5、少なくとも往時は全学ゼミで歌舞伎を見に行くだかなんだかというようなのがありましたが、そういうものって、興味があればともかく、そうでなければ履修せずに済んでしまうものです。私も、そうした授業は必要最低限しか履修した記憶がありません(そもそもA系列って履修したか定かでないです)…
そんな芸術分野にあまり興味のない*6私でも、最近歌舞伎を見せてもらう機会に恵まれ、その面白さに惹かれています。「食わず嫌い」とまでは言いませんが、接する機会がなかったから興味を持たなかっただけで、なにかのきっかけで「面白そう」と思うと、人間、あとは自分でどんどん首を突っ込んでいきますよね。嫌いな人に無理強いして見せても面白くないでしょうけれど、ニュートラルな人を面白いの方向に引き込む仕組みがなにかできたらいいなぁ、とは思いますが、具体的な案があるわけではありません。でも、初年次教育の一環として、そういうことなにかできたら面白いですよね。さらに首を突っ込みたい人には、美術史とか、深い授業があってもいいですし。

まとめ

芸術という観点にこだわって書いてみましたが、要は、いろんなものに首を突っ込んでみようよ、ということです。物好きな自分の正当化でもあります(笑)。カラオケ大会のときにはKfpauseさんにまどマギを超おすすめされたので、「拡がり」を求めてそっちにも足を踏み込んでみましょうかねぇ…

*1:前文 | 東京大学

*2:この定義って学問ないし「教養」の定義に近いのではという気もします。前に書いたエントリとも関係してくるかも?artとarts - 気が向いたら書く。

*3:ここではそう言いきります。なにせ「市民的エリート」の育成、ですし

*4:もちろん、それはそれで必要な能力であるし、東大が受験生に対してそれを求めるのは、社会が東大に求める方向性を勘案しても間違っていないと思います。この点、京大入試の方が「自由度」が高くて、見ている「優秀さ」の方向性が少し異なると考えていますし、それはそれで正しく、かつ必要な違いと信じています。半分高校時代の恩師の受け売りですが

*5:私が学生だった頃から大きく制度変更はないはず…

*6:前からたまに美術館くらいは行きましたが