artとartsとpatronage 〜スプツニ子!さんの『はみ出す力』の読書感想文〜
かつてartとarts - 気が向いたら書く。なんてエントリも上げておりましたけれど、今日スプツニ子!さんの『はみだす力』を読んでいたらまた同じようなことを考えついて、また雑文をものしてみたくなりました。
- 作者: スプツニ子!
- 出版社/メーカー: 宝島社
- 発売日: 2013/11/18
- メディア: 単行本
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最初に彼女の作品と出会ったのは、NTT ICCの「アノニマス・ライフ」でした。
ICC ONLINE | アーカイヴ | 2012年 | アノニマス・ライフ 名を明かさない生命 | 展示作品と作家紹介
当時はTABとかミューぽんとかを見つけて、暇に任せていろんな美術展に行きまくってた頃だったような気がしますが、ICCでは石黒先生の米朝アンドロイドに圧倒される一方、スプツニ子!さんのは、なんかすごいけどキワモノだなあ、なんて思っていたような気がします。
先日、東京都現代美術館のうさぎスマッシュ展で「ムーンウォーク☆マシン、セレナの一歩」がなんだかすごく気に入ってしまって。「ああ、あのICCで見たあの人か!」と気づき、しかもMITのメディアラボで助教やってるというのも知って、一躍わたしの中での注目株となったわけです(笑
そのくせちょっと本を買うまでは食指が伸びず、『はみ出す力』を図書館で予約だけ入れて半年くらいしてようやく順番が回ってきたのでした。
彼女は、たぶん良くも悪くもすごくぶっ飛んでいるんですが、たぶん弱い自分を知っているからこそ芯があって、自分を信じ抜いて前に持っていく力を持っていて。
なんとなくそんなところを自分と重ね合わせてしまって、かっこいいなあと思ったり、本を読んでいて、なぜだかこの人にだったら、(たいしてお金を持っているわけでもないですが)投資なのか出資なのか後援なのかわからないですが、お金出しても惜しくないな、と思ったんですよね。
ここで標題に戻ってくるのですが、芸術にせよ学術にせよ、基本的にはそれ自体では食っていけない*1わけで、作品を買ってくれる人や、その分野を応援してくれる人がいるからこそ成立しているのだと思うのです。もちろん、最近はR&Dで科学技術の発展に…という言説も喧しいですけれど、それはあくまで結果としてそうなるのであり、本来、最初からそれが前提ではないのだと思うのですよね*2。
他方で、大学が本当に「学術の担い手」であるかというと、少なくともその起源の時点ではおそらくそうでなかったし、日本の帝国大学に限ってみれば「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」(強調は引用者による。帝国大学令(明治19年勅令第3号)第一条。中野文庫 - 帝国大学令より)とあるように、国家有為の人材を育てることを一義的な目的として設置されたわけですが、沢柳事件や滝川事件、平賀粛学等を通して「学問の自由、大学の自治」というものが確立され、学術の担い手になっていったのではないかな、と思います*3。
吉見俊哉先生が『大学とは何か』で、大学という存在と民主主義とは本質的に相克する存在である、みたいなことをおっしゃっていましたが、おそらくそれは学術というものが本来非民主的である(そして、だからこそ危機に際して真価を発揮する(べきである/ことができる))ということなのではないかと個人的には理解しています。
- 作者: 吉見俊哉
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/07/21
- メディア: 新書
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それは、おそらく民主的に考えると、神田主計官ばりの様々なデータに論理的な返答をしていかなければならない。一方で、「学問の価値」とかそういうアプローチを取ろうとすると、そもそもそこに論理的に返答する自体がナンセンスということになってしまいかねない。現在の混乱の背景にはそうしたアンビバレンスがあるように思います。
このアンビバレンスを舵取りするのは、おそらく組織の長ということになりましょうが、その組織の長に「民主性」という「外圧」の斧を与えようとしているのが、学教法・国立大学法人法の改正なのかもしれません*4。
さて、いろいろ脱線しましたが、このような状況下で、「特段の見返りなしにお金を出してもいい」*5と思わせるのはすごいことだと思い、そして、スプツニ子!さんにはそう思わされてしまってびっくりしたのでした。
彼女の自分を前に持っていくパワーは個人的にすごく真似したいなと思いますが、そういうpatronageを惹きつける力も、大学という場に身を置くものとして、何か参考にできたらいいな、と。
「えらくなる」くらいのことは半ば公言しているところではありますけれど、果たして首尾よくえらくなったときに、何をしたいのか、何ができるのか。学術がその本質において非民主的なのだとしたら、国民国家における大学とはなんなのか、あるいは吉見先生が示唆するように、ポスト国民国家社会における学術や大学について考えるべきなのか。
そんなときに真価を発揮できる型破りな大学における型破りな存在であれたら格好いいな、なんて妄想は尽きませんが。